戸籍は次女

「キョウダイ」の大切さ

年齢が余り離れていない「キョウダイ」は、気づいた時には弟や妹がいて当たり前の日常になっている。

ある時から急に「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」「お姉ちゃんなんだからちゃんとしなさい」「○○ちゃんはお姉ちゃんより小さいんだから仕方ないでしょ」そんなセリフばかりが長男、長女でキョウダイのいる方は記憶にありませんか?

私は4歳の時に、弟の手を森の中で離してしまってから、そこから長い歳月後悔ばかりが弟にあります。

弟は小児ぜんそくで体が弱く、多分性格も「自分が!」という風ではなかったのでしょう。

それに引き替え、私自身はあまり記憶にはないのですが「自己主張の塊」だったらしいのです。

母はいつも体の弱い弟を膝に乗せ、弟を常にかばっているように幼子ながらとてもそのことを感じておりました。

当然、母の膝の上は私のものではなく、いつも弟のものです。ボンヤリと何となく弟を押しやったりしたことと、いつも叱られている私を弟は母親の後ろにへばりついて不安げなまなざしで私を見ていたことが脳裏に焼き付いてます。

私は、いつも心の中で呟いていました。

「サトシが居なきゃよかったのに!」何度も何度もつぶやきました。

ただただ母親を独り占めにしている弟が憎かった。羨ましかった。妬ましかった。

喘息の発作で苦しんでいる弟の姿は記憶にありません。

そんな日々のある夜の出来事でした。

父と母が薄暗い部屋の中で何やら話をしていたようで、その話声で目が覚めました。

これから弟をどこかへ連れて行く様子で「どこへ?なんで?」と思いながら寝たふりをして耳を澄ましておりました。

弟は行きたくないとグズッている様子でしたが、母か父どちらが言ったのかは定かではありませんが、「いい子にしていたら赤い消防車買ってあげるよ、うんと大きいヤツ!」とその言葉だけがとても印象深く私の耳の奥に残っています。それから、私はまた眠りについてしまったようです。

あとから分かったのですが、その日は大みその夜だったそうです。

父は国鉄の車掌でしたので、今だから話せる事情ですが貨物列車の一番うしろに連結されている人が乗れる車両で父大きな町の病院へ向かったそうです。

そこから私の途切れ途切れの記憶は、元旦の昼下がりの時間になります。

母と二人で夏に使うビニールロープのようなもので作られた左右が何段階かに調整がきくサマーベットに横たわり、呑気に人形劇のテレビを見ていた時のことでした。

そのテレビの画像は今でも忘れません。

透き通るような夢の国で妖精のような羽のついた女の子と人間の男の子が居て、男の子が「さようなら」と言いながら天に昇っていくシーンのまさにその時でした。

「お電話が入っています」と知らせのひとがやってきました。

当時はまだ、ひと家庭に1台電話機がある時代ではありませんでしたので、電話機のあるところから、多分駅舎からだったのではないかと思いますが「電話が着ている」と呼び出しがあり、母は慌てて電話口へ向かったようでした。

そこで、私の記憶はまた途切れます。

弟が消えた日

それからどのくらい経ったのかはわかりません。多分1日が過ぎていたと思います。

私の頭の中の次の記憶映像は、とっても太陽がキラキラしている穏やかな日でした。

私は、何気に縁側から差し込む日差しを目で追っていました。

その先には、布団に横たわっている弟の姿がありました。

しかもそのまわりで何人かの大人たちが涙しているではありませんか。

その光景がとても不思議に思えたので、ジッと目を凝らしてみてみると、叔母がとっても優しく弟の体を拭き、白い着物に袖を通していました。

白い着物を着た弟の枕元には約束していた「大きな消防車」が置かれていました。

それを見て「いい子にしていたから消防車買ってもらえたんだね」と心からよかったと思いました。

幼かった私には白い着物を着ると言う意味が良くわかりませんでした。

もう二度と弟という存在を肌で感じることは出来ない状況になってしまったことなど、分かる訳がありません。

随分年月が流れてから母から聞いた話では、電話は父からで父の腕の中で弟が息を引き取ったと言う事でした。

昭和40年頃だとまだまだ救急病院などと言う決まりもなく、元旦に父が弟を抱きかかえながら函館市内の病院を何軒も廻って歩いていたそうです。

病院には先生が在宅しているにもかかわらず断られたところもあったようです。

そうして弟は父の腕の中で息絶えたそうです。

父もその頃すでに腫瘍に脳を蝕まれ始めていたため、判断力に欠けていたのだと後に分かったそうです。

とくに喘息の発作は出来るだけ冷たい空気にさらさないことが1番です。北海道の元旦は厳寒の何ものでもありません。

そのことを母は生涯悔いています。いえ、母はそのこと以外でも色々なことで「自分が息子を死なせてしまった」と責めています。

そして私は、ここからずーっと「弟なんていなくなればいい!!」と思ったから、本当に弟がいなくなってしまったのは自分のせいだと、大きな穴にフタをして生きて行くことになります。

そこから先またしばらく記憶がありません・・・・・。

ある日の寒い夕方にどこからか自宅の官舎へもどったところからまた映像が甦ります。

寒さで家の中が電気をつけてもすぐパァ~っとは明るくなりません。かなり、部屋の温度が低かったのでしょう。

そして、家中がお線香の匂いでむせ返っていて、ここは本当に今まで住んでいた家なのかととても不安になりました。

そこから私は大人になるまで、お線香の香りが無性に嫌な香りとなってしまいました。




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